第59週(第235回〜第238回)

2006年10月、カトリック岡山教会での講

第235回配信(2008.10.30)
【姦淫してはならない】その9(マタイ5:27〜28)
◆そこでケセン語訳では次のように訳しました。【其方等(そなだァど)も聞いでだ通り、「他人(ひと)の女房(おがだ)さ手ェ出すな」って語らィでる。加ァで、この俺ァ語っておぐ。他人の女房さ目ェ付けで、何とがすて その女(おなご)ォ 我がものにすてァもんだって 渇望(いらけ)る者ァ、誰でも既(いっつ)に心ん中で、他人の女房ァ盗んでる。】と訳しました。◆標準語風に訳すと次のようになります。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第236回配信(2008.11.3)
【姦淫してはならない】その10(マタイ5:27〜28)
◆マタイ5章27〜28節を標準語風に訳すと【あなたたちも聞いていた通り、「他人の女房に手を出すな」と語られている。加えて、この俺は語っておく。他人の女房に目を付けて、何とかしてその女を我がものにしたいものだと渇望(いらけ)る者は、誰でも既に心の中で、他人の女房を盗んでいる。】と訳しました。(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第237回配信(2008.11.4)
【女房ォ追出すな】その1(マタイ5:31〜32) 〜イエスの結婚観〜
◆マタイ5章31〜32節に「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」とあります。◆ユダヤの社会では離婚は完全に男の自由でした。気に入らなければ離縁状を書いて、いつでも妻と離婚することができましたのです。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ


第238回配信(2008.11.5)
【女房ォ追出すな】その2(マタイ5:31〜32) 〜イエスの結婚観〜
モーセは女性保護のために、2人の証人の前で、「○△の理由でこの女と離縁します。離縁した後にこの女が他の男と結婚しても異議はありません」と離縁状を書いて渡すように定めました。しかし、この定めを守れば離婚は男性の自由だったのです。◆日本では「三行半(みくだりはん)」といって三行半の離縁状でしたが、ユダヤでは十二行だったようです。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第58週(第231回〜第234回)

第231回配信(2008.10.23)
【姦淫してはならない】その5(マタイ5:27〜28)
◆日本語で「姦淫」といえば、人妻が夫以外の男と通じる事を言いますから、「姦淫」の主語はあくまで「女」になります。また、「モイケウオー」は人の女房を盗むことをいいますから、その主語は「男」なのです。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第232回配信(2008.10.27)
【姦淫してはならない】その6(マタイ5:27〜28)
◆さて、「バルバロ訳」や「フランシスコ会訳」で「女」と訳されている言葉は「ギュネー」という言葉ですが、この言葉は?女、婦人?女主人、貴婦人?妻、人妻などの意味があります。◆しかし「モイケウオー」の意味が人の女房を盗むことである以上、この場合の意味は「人妻」ということになります。そうなると「ギュネー」を「女」と訳し、女性一般のことのように訳しているバルバロ訳やフランシスコ会訳は正確な訳とはいえず、「他人の妻」と訳している「新共同訳」は全く正しい訳といえます。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第233回配信(2008.10.28)
【姦淫してはならない】その7(マタイ5:27〜28)
◆徹底した男尊女卑の当時の社会にあって、「独身の女性」を犯してもたいした罪になりませんでした。その場合、結納金を払って結婚すれば良いとされていました。◆しかし「人妻」と通じると、石殺しや縛り首で死刑にされたのです。◆要は、マタイ5章27〜28節で問題にしていることは色情云々ではないのです。男が女を見て、女が男を見て、なにがしかの色情を覚えるのは当たり前の自然現象です。それ自体が問題なのではないのです。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第234回配信(2008.10.29)
【姦淫してはならない】その8(マタイ5:27〜28)
◆マタイ5章27〜28節で問題にしているのは、他人の妻をなんとかしてわが物にしようと決意し、渇望し、虎視眈々、あらゆる手段を尽くして付け狙っているそういう奴のことなのです。◆たしかにそこまで行けば、それはもう心の中で人妻を盗んでいるも同然ですから罪といわれても仕方がないですね。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第57週(第227回〜第230回)

山形での山浦講演会


第227回配信(2008.10.16)
【姦淫してはならない】その1 (マタイ5:27〜28)
◆マタイ5章27〜28節に【あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。】(新共同訳)とあります。◆これは実に迷惑な聖句です。この一言のために自分の青春時代はどんなに暗く辛かったことか。(笑)◆ちなみにこの聖句を他の聖書で見てみましょう。バルバロ訳は次のようになっています。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第228回配信(2008.10.20)
【姦淫してはならない】その2(マタイ5:27〜28)
◆マタイ5章27〜28節をバルバロ訳は【しかし、私はいう。色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通したのだ。】となっています。◆また、フランシスコ会訳では【しかし、わたしはあなたがたに言う。誰でも情欲を抱いて女を見る者は、その女に対し心の中ですでに姦通の罪をおかしたことになる。】と訳されています。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第229回配信(2008.10.21)
【姦淫してはならない】その3(マタイ5:27〜28)
◆「色情」とは性欲にもとづいた感情のことですが、色情があるからこそ心がときめき、恋をして、かわいい子どもが生まれてきます。それなのに、色情をもって女を見る者は、すでに心の中でその女を犯しているとは、いくらなんでもひどい話です。このことで私は何百回告解したかわかりません。日曜日の度に告解したものです。(笑)◆これは誤訳だと思うのです。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第230回配信(2008.10.22)
【姦淫してはならない】その4(マタイ5:27〜28)
◆「姦淫」というのは「モイケウオー」の訳ですが、この言葉の意味は本来「人の女房を盗むこと」をいいます。ですから、罪を犯すのは男であって、罪の被害を受けるのは「女房を盗まれた男」ということになります。◆ユダヤ教は徹底的な男尊女卑の宗教ですから、女は男の所有物に過ぎないという考え方でした。モーセ十戒の10番目に「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」(出 20:17/新共同訳)とありますが、ここでは女性は家や家畜と同列に扱われています。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ
写真は2006年9月、日本キリスト教団山形六日町教会で行われた山浦さんの講演風景

第56週(第223回〜第226回)

第223回配信(2008.10.9)
【憤怒(ごせ)ェ焼ぐな】その13(マタイ5:21〜26)
◆マタイ5章26節のケセン語訳を標準語風に訳すと、【しっかりと語っておくぞ。最後の五十円玉一つ弁済するまでは、其処を出る訳には 行かないぞ。】となります。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第224回配信(2008.10.13)
【コーヒーブレイク】その12 〜棄(な)げる〜
◆マタイ5章13節のケセン語訳に、【〜ただ、外さ棄(な)げらィで、人に踏まれるばんだ。】(〜ただ、外に棄(な)げられて、人に踏まれるばかりだ。)という文章がありました。◆標準語で「なげる」といえば、「ボールを投げる」などと使いますが、気仙地方では「捨てる、遺棄する」ことを「なげる」といいます。意味がわかるようケセン語訳では「棄(な)げる」と標記しています。◆例えば気仙で「ゴミをなげて来る」といえば、ゴミステーションにゴミを“棄て”に行くことです。決して、ゴミ袋をポーンと遠くに“投げ”て来るわけではありません。(イー・ピックス出版/熊谷)

第225回配信(2008.10.14)
【コーヒーブレイク】その13 〜強固(ぎっち)ど〜
◆マタイ5章26節のケセン語訳に【強固(ぎっち)ど語(かだ)っておぐべァ。最後の五十円玉ァ一つ 弁済(まや)うまでァ、其処ォ出はる訳にァ 行がねァぞ。】とありましたが、「ぎっちど〜する」というケセン語は、「しっかりと、確実に、念を押して〜する」という時に使います。◆例えば「間違いのないように、ぎっちど語って聞かせた。」(間違いのないように、しっかりと語って聞かせた)というように使います。ケセン語訳では、意味を理解しやすくするため「強固」という漢字を当てて、「強固(ぎっち)ど」と書き表しています。(イー・ピックス出版/熊谷)

226回配信(2008.10.15)
【コーヒーブレイク】その14 〜憤怒(ごせ)ェ焼ぐ〜
◆マタイ5章21節で、「憤怒(ごせ)ェ焼ぐ」という言葉が出てきました。ケセン語で「ごせェ焼ぐ」というのは「怒ること」をいいます。◆ケセン語訳聖書では意味を理解しやすいように、「憤怒」の漢字を当てて「憤怒(ごせ)ェ焼ぐ」と書き表しています。◆「気持ちは分かるが、そんなに憤怒(ごせ)ェ焼ぐな」(気持ちは分かるけれど、そんなに怒るな)などと使います。(イー・ピックス出版/熊谷)

※写真は2006年9月、日本キリスト教団山形六日町教会で行われた山浦さんの講演風景

第55週(第219回〜第222回)

第219回配信(2008.10.2)
【憤怒(ごせ)ェ焼ぐな】その11(マタイ5:21〜26)
◆マタイ 5章23〜24節のケセン語訳を標準語風に訳すと【だから、祭壇にお供物を上げ申そうとする時に、兄弟があなたのことを恨んでいるのを思い出したなら、そのお供物をまずそこに置いて、行って、兄弟と仲直りをして、それから帰って、お供物を捧げなさい。】
となります。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第220回配信(2008.10.6)
【憤怒(ごせ)ェ焼ぐな】その11(マタイ5:21〜26)
◆マタイ5章25節は【あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。】(新共同訳)とあります。◆これをケセン語訳では【其方(そなだ)ァどごォ 訴ァんべァづゥ人どして 街道ォ歩(あり)ってっ時にァ、途中で早ぐ仲直りィすなれ。そんでねァづゥど、その人ァ 其方ァどごォ 裁(さば)ぎ人(っと)さ引ぎ渡す、裁ぎ人ァ下役さ引ぎ渡す、其方ァ 牢さ打ぢ込まれっ事(こっ)た。】と訳しました。標準語風に訳すと次のようになります…。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第221回配信(2008.10.7)
【憤怒(ごせ)ェ焼ぐな】その11(マタイ5:21〜26)
◆マタイ5章25節のケセン語訳を標準語風に訳すと【あなたのことを 訴えようという人として 街道を歩いている時には、途中で早く仲直りをしなさい。そうでないというと、その人は あなたのことを 裁き人に引き渡す、裁き人は下役に引き渡す、あなたは 牢に打ち込まれるだろう。】となります。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第222回配信(2008.10.8)
【憤怒(ごせ)ェ焼ぐな】その12(マタイ5:21〜26)
◆マタイ5章26節に【はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。】(新共同訳)とあります。◆これをケセン語訳では、【強固(ぎっち)ど語(かだ)っておぐべァ。最後の五十円玉ァ一つ 弁済(まや)うまでァ、其処ォ出はる訳にァ 行がねァぞ。】と訳しました。これを標準語風に訳すと次のようになります。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第54週(第215回〜第218回)

kijinomori2010-05-22

第215回配信(2008.9.25)
【憤怒(ごせ)ェ焼ぐな】その8(マタイ5:21〜26)
◆前の考えに新しい考えを付け加えていって人間の考えは進歩するのであって、否定して進歩するのではない、というのがユダヤ人の考え方です。◆教皇ヨハネ・パウロ二世の時にユダヤ教会とカトリック教会とが歴史的な和解をし、それ以降ユダヤ教キリスト教をつきあわせる研究が進んでいますが、これはその研究の成果でわかってきたことです。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第216回配信(2008.9.29)
【憤怒(ごせ)ェ焼ぐな】その8(マタイ5:21〜26)
◆そこでケセン語訳では【加(くゑ)ァで、この俺ァ語っておぐ。兄弟さ憤怒(ごせ)ェ焼ぐ者ァ、皆必ず罰ァ当だる。兄弟さ向がって、「馬鹿(ばが)!」って語(かだ)ん者ァ白州(しらす)に引っ張り出され、「阿呆(あほ)!」って語(かだ)ん者ァ 焼き場の火さ くべらィる。】としました。標準語風にすると以下のようになります。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第217回配信(2008.9.30)
【憤怒(ごせ)ェ焼ぐな】その9(マタイ5:21〜26)
◆マタイ5章22節を標準語風にすると、【加えて、この俺は語っておく。兄弟に腹を立てる者は、皆必ず罰が当たる。兄弟に向かって、「馬鹿!」と語る者は白州(しらす)に引っ張り出され、「阿呆!」って語る者は 焼き場の火に くべられる。】となります。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ


218回配信(2008.10.1)
【憤怒(ごせ)ェ焼ぐな】その10(マタイ5:21〜26)
◆マタイ 5章23〜24節に【だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。】(新共同訳)とあります。◆これは【んだがら、祭壇さ お供物(そなァもの)ォ 上げ申すべァどすてで、兄弟が其方(そなだ)ァどごォ 恨んでんのォ 案ず出すたら、そのお供物ば まず其処さ置いで、行って、兄弟どすて 仲直りィすて、それがら帰って、お供物ォ捧げなれ。】と訳しました。標準語に訳すと次のようになります…。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ
※写真は東京での講演風景

第53週(第211回〜第214回)

2005年4月の東京講演の風景1

第211回配信(2008.9.18)
【憤怒(ごせ)ェ焼ぐな】その4(マタイ5:21〜26)
◆日本語に訳せば同じ「殺す」ですが、「Kill」はただ殺すこと、交通事故でたまたま人をはねて殺してしまった時などは「Kill」に相当します。戦争で自分の身を守るためにやむなく人を殺す時なども「Kill」を使います。◆しかし、前もって周到な計画を立て人を殺すこと、つまり謀殺のことを「Murder」というのです。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第212回配信(2008.9.22)
【憤怒(ごせ)ェ焼ぐな】その5(マタイ5:21〜26)
ヘブライ語も英語と同様に「殺す」という意味の言葉は2つあって、モーセが「殺してはならない」と十戒の中で言っているのは「謀殺=Murder」の事なのです。◆戦争で自分の身を守るために殺すことを禁じているのではないのです。しかし、いくら憎い人間だとしても、その人を殺すような計画を立て謀殺するようなことは罪になるとモーセは言っているのです。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第213回配信(2008.9.23)
【憤怒(ごせ)ェ焼ぐな】その6(マタイ5:21〜26)
◆マタイ5章22節に【しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。】(新共同訳)とあります。◆ここで「しかし、…」と訳されている言葉を、ケセン語訳では「加(くゑ)ァで…」(加えて)と訳してあります。◆これまで「しかし」と訳されてきましたが、そのように逆説的に訳すと、どうもユダヤ人の思考方法とは合わなくなり、日本語訳としては正しくないように思います。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第214回配信(2008.9.24)
【憤怒(ごせ)ェ焼ぐな】その7(マタイ5:21〜26)
◆「しかし、…」という日本語訳の場合、前のことを否定してしまいます。ところがこれはユダヤ人の思考方法ではないようです。ユダヤ人達は相手の考えは尊重した上で、「それに加えて、自分の考えはこうなのだ」という思考をします。◆前の人の考えを絶対に否定せずに、「そのような考えもあるが、自分はそれに“付け加えて”このように考える」と考えるのがユダヤ人なのです。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ
※写真は2005年4月の東京講演の風景です