第43週(第171回から第174回)

塩釜キリスト教会での講演風景

第171回配信(2008.7.10)
【真福八端】その11(マタイ5:6)〜義に飢え渇く人々 <4>〜
◆そこでケセン語訳聖書では、【施しに あだづぎ そごねで、腹ァ減って、咽ァ渇(かゑ)ァでる人ァ幸せだ。満腹(くっち)ぐなるまで 食ァせらィる。】(施しに ありつくことができずに、腹が減って、咽が渇いている人は幸せだ。満腹するまで食べさせて頂ける)と訳しました。◆このようにみてくると、「真福八端」の前半の四つは「貧乏人の話」で、後半の四つは、「貧乏人にやさしくする人」の話だということがわかります。(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第172回配信(2008.7.14)
【真福八端】その12(マタイ5:7)〜憐れみ深い人々〜 
◆マタイ5章7節に【憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。】(新共同訳)とあります。◆憐れみ深いというのは情け深いということですからケセン語訳聖書では【情げ深(ぶげ)ァ人ァ幸せだ。その人達(ひたぢ)ァ情げェ掛げらィる】(情け深い人達は幸せだ。その人達は神様から情けを掛けていただける)と訳しました。(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第173回配信(2008.7.15)
【真福八端】その13(マタイ5:8)〜心の清い人々 <1>〜 
◆マタイ5章8節に【心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。】(新共同訳)とあります。気仙では“心の清い人”などという言い方はしませんので、ここは“心根の美しい”と訳しました。◆そこでケセン語訳では【心根の美しい人ァ幸せだ。その人達ァ神様さのお目通りァ叶う。】(心根の美しい人は幸せだ。その人達は神様へのお目通りが叶う)と訳しました。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第174回配信(2008.7.16)
【真福八端】その14(マタイ5:8)〜心の清い人々 <2>〜
◆新共同訳では「その人たちは神を見る」としていますが、当時は神は恐ろしい存在で、神を直接見ると死ぬと考えられていました。◆出エジプト記の中に「モーセの召命」の場面があります。モーセはホレブの山で燃える柴の中に神様がいるのを知って、神様を見ることを恐れて顔を覆ったと書いてあります。◆マタイ5章8節ではそのような“恐ろしい存在の神”の意味で使っているわけではなく、神様は心根の美しい人を誉めてくださるという意味ですから、ここは「神様へのお目通りが叶う」と訳したのです。(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ
※写真は2009年10月25日、宮城県塩釜キリスト教会での講演風景