第27週(第111回から第114回)

第111回配信(2008.3.24)
【人はパンだけで生きるものではない】その2(マタイ4:3〜4)
ケセン語訳では、「誘惑する者」がイエスに近寄ってくる様を、「居(い)しずり 傍(そば)さ 寄さって来て…」と表現しています。◆「居(い)しずり」という意味ですが、例えば炉端やコタツにあたって、家族みんなで話をしている時、2階から下りてきた子どもが、ぐりぐりと押しのけるように間に割り込んでくる有様を言います。◆誘惑する者が近寄ってくるわけですから、「居(い)しずり」というのは気仙の人達にとって臨場感のある表現になっているわけです。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第112回配信(2008.3.25)
【人はパンだけで生きるものではない】その3(マタイ4:3〜4)
◆マタイ4章3節に【神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。】(新共同訳)とあります。◆これを最新のケセン語訳では【其方(そなだ)ァ、もす神様の子だら、この石っこ等さ 握飯(むすび)になれって語れや。】(お前がもし神様の子だったとしたら、この石っこ等に 握飯(むすび)になれと言ってみたらどうだ。)と訳しました。◆「パン」では気仙の人には生活感がありませんから、ここは「握飯(むすび)」と訳しました。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第113回配信(2008.3.26)
【人はパンだけで生きるものではない】その4(マタイ4:3〜4)
◆マタイ4章4節に、【イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」】(新共同訳)とあります。◆「人はパンだけで生きるものではない。」という言葉は、子どもの頃から何度も聞かされた言葉ですが、どうもよくわからない言葉でした。◆ここで言う「パン」とは「食べ物の総称」と教会で教えられました。「しかし、食べ物さえ食べていれば生きるではないか、神様の口から出る言葉などは、腹の足しにもならないのではないか…」と思っていました。◆私の少年期は終戦時代でしたので、毎日腹をすかしておりました。そんな経験を持つ自分には、どうも納得できない言葉だったのですが、最近になってようやくこの意味がわかったのです。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ

第114回配信(2008.3.27)
【人はパンだけで生きるものではない】その5(マタイ4:3〜4)
◆「生きる」(ギリシャ語で「ゾー」)という言葉は、日本語とギリシャ語では微妙にその意味合いが違います。◆ギリシャ語(ゾー)は、ただ単に生きるという意味ではなく「元気でピチピチ、明るく生きる」という意味合いを持っています。この意味合いを見失うと、「人はパンだけで生きるものではない」という言葉の持つ大事なポイントがわからなくなってしまいます。◆植物状態になってしまった気の毒な病人のように、ただ生きているというのではなく、明るく、活き活きと、喜びに満ちて生きることを「ゾー」と言っているのです。<続く>(「ケセン語訳聖書を楽しむ会」より熊谷雅也が要約)※ケセン語訳聖書の情報はイー・ピックス出版 http://www.epix.co.jpへどうぞ


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